昭和41年02月28 日朝の御理解



 2月の月も今日1日で終わりで御座います。2月は逃げるとか、走り月とか申しますね。本当にもう瞬く間に、2月という月は、何時もの月よりも、早く過ぎる様な気が致します。もちろん28日、いうなら、2日間あまりも、少ないからでも御座いますけども、本当に瞬く間で御座いました。これは、日々も同じで御座いますけれども、特に月の終わりとか、という時には、本当にこの一月というものを、振り返ってみて、反省さして貰うところは反省さして貰う。
 そして、この3月の月は、3月の月からは例えば、と云う様なものがなかならなければならんのは、誰しもそれがあるだろうと思うんですけど、いうならば、整備をするというかね、整備を整える。例えば車でも毎日、夜なら夜に点検を致しまして、ネジが緩んでおる所は締めておく。油が切れておるなら、また油も補給しておくと言うように、これは勿論日々、それがなされていかなければならん。
 私共の日々、いやが上にもおかげの人生にする為にも、又は人生を楽しく、いわゆるエンジョイする為にも、これが必要だと、途中で油が切れたなんて、こんな不愉快な事はない。ネジが緩んでおったのが気付かなかったので、大変な失敗、と言った様な事になっても、いよいよ危険。ですから、特に、取分け一月なら一月という月を締めくくらせて頂く時、この月も広大なおかげの中に終わらせて頂きました。
 振り返ってみますと、とうとう1月の月も出来なかった事が、やっぱり2月も出来なかった。3月こそは、ひとつと例えばネジを締め上げて行く様な気持ちで自分の心をしゃんとする手立てをこうじなければいけない。これは私あのう、何時も感じる事であり、また、人にも伝えさせて頂く事で御座いますけれどもね、例えばお商売なんかを致しますとね、今日は寒かったからとか、今日はお湿りであったからとかお客さんが少なかったとか、と言う様な事を申しますけど。
 信心を頂いておる者はです、間違いのない神様を頂いておる者は、そういう考えは一掃しなければなりません。無くさなければいけません。自分でおかげを自分で向こうに押し返している様なものです。例えていうならば、私なら私が百斤なら百斤という持てる力があるならです。それはどうでしょう皆さん水なら水を百斤持つのも、お米ならお米を百斤持つのも同じだと云う事です。百斤の力というものは一様だと云う事。
 それを今日はお天気が良いから、今日はちょっと五十斤しか持てんと云う事はないでしょうが。今日はお天気が良かったけん、何時もは百斤しか持てんとばってん、今日は百二十斤持てたと言う様な事はないでしょう。 と云う様にです、私共は信心さして頂いて、段々自分の徳なり力なりというものを頂いていったら、それだけはどうでも持てれるんだと云う事を思わなきゃいけません。
 今日はまぁ例えていうなら、田舎ではよく申しますよね農繁期、農閑期と云う事。ですからま、田主丸当りのま、農村を相手の商売人の方達は農閑期にお商売があって、農繁期にはお商売がないともう決めてしまっている。ですからあの農繁期は商いがないものだとこう思うておる。そんな事はないです。だからあのう例えばその農繁期で人手が少ないならばです、お百姓をしてない人達が、来て貰やぁいいですもんね。そこのお繰り合わせを頂きゃいいのですよ。それで自分で決めてしまっちゃいけません。
 けれどもそのどこにかそのそういう気持ちが暗にありますからですね、矢張りその農繁期の時には商いが少ないなら、少ない所をしっかりお詫びしていかなきゃいけません。例えばそんなら椛目の場合なんかそうでしょうが、雨が降ろうがお天気が良かろうが、農繁期であろうが、農閑期であろうがですここにお参りをされる、私がお取次ぎをさせて頂く人数というのは、大体ほぼ決まっている。現在私は普通は日々200人近くお取次ぎさしてもらう。お月並祭の時で三百四、五十。もう是は決まっとる。
 ですから、そこんところを焦点に置いておかげを頂いてまいりますとです、んなら、今度は何ま月か後にはそんなら、月次祭には400人。普通はまあ200人の所が二百四、五十人もお参りが多くなると致しましょうか。それが力を頂いたんですから、もう、その力というものは、何時も、何時も同じだと云う事。何時も同じと云う事は、こちらが力を頂けば、またそれだけが多くなる。あぁ、今日は雨が降ったけん少なかったなんて言う様な事はあっちゃならん。
 よしあったならです、私の、言わば頂き不足として、私の受け物が悪かったとして、お詫びして行く気持ちが必要です。神様の働きに、そんな粗漏の有る事はない。間違いがある事はない。こっちの受け物に粗漏が有るのである。こちらの受け物が悪いのである。皆さん、そこんところをあのう、私共の心の中に、やっぱありますよね、私共、田舎で商売さして頂いておりましたが、それを感じるんです。確かに、お百姓さん相手のお商売には、お百姓さんが忙しい時には、商いが少ない。
 けれども、段々信心が分からして頂く様にならせて頂いたら、そんなものであっちゃならんと、お百姓さんは来て頂かなくても、商売人が来てくれたらいい。百姓してない人達がお繰り合わせ頂いたら良い。んね。そういう、私はおかげを頂かせて頂かなきゃならん。特に私は、何時も、これは毎年思うんですけどね。28日なら2月は28日でしょ。ですから、何時もより2日少ないから、ま、いうなら売上ですね。
 水揚げ量とでも言いましょうか。ここのお初穂ならお初穂、お賽銭ならお賽銭がそれだけころっと少ないかといったら、決して少なくないから不思議です。これなら例えば高柴さんが、毎日何日何日置きにか銀行預金に持って行かれるからですね、聞いてみられたが一番いいです。「あら2月じゃけん今月は少なかですね」ちゅう事は絶対ないです。そこに例えば力というものを信じない訳には参りませんでしょうが。
 やっぱり百斤持てる者には、言わば2日少なかっても1日多かっても、大体同じだと云う事。持てる力というものは1日なら1日にひと月ならひと月に1年なら1年に、それが勿論信心の向上によってですねぇ。去年の2月には2月と云う事ではないでしょうけれども、去年は1万円の売上しかなかったのがです、今年は1万1千円に売上が多くなっておるというたら1万1千円が続かなければいけません。1万2千円の力を頂いたら1万2千円の売り上げが続かなければいけません。どんぶりがある不同がある。
 これは自分達の信心を大いに反省さしてもらう。今日私が申しております、言わば油の切れておる時か信心のネジが緩んでおる事かですから、用心が要ります。そういう意味で一つ今日締めくくらせて頂く時などは、愈々ここん所を反省さして頂かなければいけないと思うですね。ネジが緩んでは危険です危ない。どうでも締め上げとかなければいけません。整備をしとかなければ、言わば明日の御用に差し支えます。
 楽しい1日であるはずの、楽しい1日がですね、例えば、ドライブならドライブを致します。ところが、途中で引き返して来なければならなかったり。整備が出来てなかった為に、油が切れた為に。不愉快でしょうが。楽しいだんじゃなくなって来る。ところがその私共は、どうもその辺をるうずに致します。るうずになりますところに、おかげもやっぱりしだごだなもんになって来ます。
 はっきり、おかげをですねおかげとして、昨夜の御理解に頂きます様に、信心をさして頂いて、その有難いという、信心はまあ有難しの追及だと私はこう申します。又教祖も、真に有難いと思う心、すぐにみかげのはじめとこう、有難いという心でおかげをキャッチするのだとね。ですから、その有難いというものをです、例えばお話を頂けばです、ほんに成程、お生かしのおかげを頂いておる事も有難けりゃぁ、お水を使わせて頂いておる事も、歩かせて頂きよる事も有難いのだけれども。
 それがその有難いもんだと分かっただけじゃいけん。真から沸いて来る様な物でなからなければ。例えていうならば、冷たいも暑いも感じないくらいの有難いもの。例えば術ない、苦痛な事があってもです、有難いというものでそれを浄化してしまう位の有難さというものが、沸いて来る様な物、がなからなければ、私は本当の有難い生活、言うだけでおかげにならんと思う。
 お互いが、信心も出来ませんのにおかげを頂いております。いうなら、大水がこう、特別の信心させて頂けばですね、ま、お恵みを、水をお恵みと致しましょうか。言わば大水の様なおかげを頂いておる訳です。そのおかげに甘えるというか、ずっと、例えば大水がこう、押し上げて来ますかね。そうすっとそこに道があっても、その道がどこがどこやら分からん様になるでしょうが。おかげの為に、とうとう道を分からんなりに仕舞えなければなりません。ただ、一生をおかげで終わっただけではいけません。
 天地に通うとか、継ながる信心の道というものを体得させて貰わなければいけません。私共は、その道を先ず体得させて頂く意味合いにおいてもです、それはま結論致しますと、有り難いという追求になりましょう。その有難い、どう云う様な状態にならせて頂いたら、有難くなれるかと云う事を体得させて貰う。その為には、私共が本当に身近に。あぁ是が神様の働きであろうと、なんという素晴らしいタイミングだろうと。
 始めの間は「ふが良かった」ぐらいに思いよったけど、こう、何時も万事に都合お繰り合わせ頂いたら、これは、偶然とか、ふが良かったとわ言われない。こういう働きの中に、おかげを頂いておると云う事を目の当たりに見たり、または実際に感じたりして、初めて有難いというものが沸いて来るのです。で、その有難いのが、有難いその心が、次の心を、次のおかげを頂いて行く事が出来るのですからね。
 どんなに10年信心しておりますと言うて、信心が高尚になりましてもです、その生き生きした喜びが薄らいで参りましたら、もう値打ちはありません。昨夜の御理解に、ま、厳しい事を頂くんですよね。例えば鶏がですね、この頃もう一向に卵産まんごつになった。こらもう油ん回ってしもうたじゃろう。今度絞める時には、いっちょあれから先に絞めるちゅうごとなって来るち。
 信心させて頂いておるものが、信心の、言わば喜びの卵というものが日々産みなされて行かなければ、そこに例えば毎日毎日良い卵を生む鶏はです。もう絞めんならんでも、殺さなん時期がきてもです、必要であって、こらもう卵ばよう産むけんで、こらまぁいっとき生かしとこうと云う事になるでしょうが。同じ事。天地の親神様もまた、私共氏子一人ひとりの上にそういう、日々、有難い卵を産んで行くから、喜びの卵を産んで行くから大事にされますね。
 神様がその、もう喜びが、あれはもういっちょん喜ばんごとなったから、生き生きとした喜びの卵を産まんから、もうあらぁ絞めっしまおうちゅうてから。はぁ絞めなさる、そんな事はありますまいけれど、とに角、私共がおかげと感じられない事が、いよいよ、いわゆる有難いというものは与えて下さらないです。もう下さらなくなって来るです。それはよく、「もうお気付けも頂けんごつなった」とこう申します。
 おかげを頂く人は、もうお気付けをはっきりと頂きます。本当におかげを頂いていく人は、お気付けもはっきりしとります。もうあれは、いくらお気付けをねぇ、やってもです、気が付かん。知らん顔しとる。時には、もう必ずおかげも薄らいだものになっておる時です。だから、お気付けが頂けると云う事は、生き生きした、おかげを受けておる時ですね。神様が「こらこら」と、もう呼びかけると、はっと気がつく、位な信心をさせて貰わないとなりません。
 それにしましてもです、私共の信心のネジが緩んでおるとです、緩んでおる時には、お気付けをお気付けとも気付き切りませんですから、もちろんおかげをキャッチすると云った事はもちろんでけません。信心はこうしゃでなからねば、おかげを頂けんと云う事はありません。もう一番初心の人でも、初心な人でも、「信心ちゃ有り難いもんだな」と、初めて頂く天地の道理。
 初めて聞く天地のご恩徳「今まではこの道理に合う生活をしなかった。天地のご恩徳に対して、神恩報謝の生活をしなかった。本当に相済まん一生であった。これからは」というその気持ちが、もうおかげを頂く気持ちなんです。ですからあの人はもう10年選手だから、よけいおかげを頂かっしゃると云う事は絶対ないですねぇ。もう本当に信心ばかりはです、この初心な、神様え打ち向かう心でおかげを受けるんですから。
 だから初心を失わん様に、うぶな心を失わん様にしようと、これはもう信心だけではないですけれども、何の稽古でも、稽古事にはそれを申します。それが、何時の間にか私共が緩みます。ま、日々と言いたい所なんですけど、特にまあ1月の締めくくりと言った様な時には、本気で一つ自分の信心を振り返させて貰、見直さして貰うて、ネジを締めた上にもこう締め上げて息、油を差していかなん所には油を差して行く様なおかげを頂かなければならんと思いますですね。
   どうぞ。